大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成元年(行ウ)219号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

久連山剛正

梅澤幸二郎

本田敏幸

間部俊明

木村哲也

山下幸夫

藤田正人

福島武司

被告

外務大臣

渡辺美智雄

右指定代理人

海老名信

外一名

被告

右代表者法務大臣

後藤田正晴

被告ら指定代理人

名取俊也

外四名

主文

1  本件訴えのうち、被告外務大臣が原告に対し昭和六三年七月二九日付けでした一般旅券を返納すべき旨の命令の取消しを求める部分を却下する。

2  被告国は、原告に対し金七〇万円及びこのうち金六〇万円に対する昭和六三年八月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  原告の被告国に対するその余の請求を棄却する。

4  訴訟費用中原告と被告外務大臣との間に生じたものは原告の負担とし、原告と被告国との間に生じたものはこれを五分し、その一を被告国の負担とし、その余は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

1  被告外務大臣が原告に対し昭和六三年七月二九日付けでした一般旅券の返納命令(以下、「本件旅券返納命令」という。)を取り消す。

2  被告国は、原告に対し、金五〇〇万円及びこのうち金三〇〇万円に対する昭和六三年八月一日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

第二事案の概要

一本件は、被告外務大臣が原告を旅券法(平成元年法律第二三号による改正前、以下「法」という。)一三条一項五号にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」であるとして、発給していた一般旅券の返納を命じたので、原告が右の命令は違憲違法であるとして、その取消しを求めるとともに、被告国に対し、違法な命令により精神的損害を受けたとして、国家賠償法一条一項に基づきその賠償を求めた事案である。

二本件においては、本訴訟係属中本件旅券がその五年の有効期間を経過したため、経過後においてもその返納命令の取消しを求める訴えの利益が存するかどうかが前提問題として争点となっており(争点1)、次に、本件旅券返納命令の根拠とされた法一三条一項五号及び一九条一項の規定が日本国憲法(以下「憲法」という。)二二条二項及び三一条に違反するかどうかという点(争点2)、本件旅券返納命令に手続上の違法事由が存するかどうかという点(争点3)、原告が昭和五七年から朝鮮民主主義人民共和国政府機関の工作員と認められる人物と海外において接触し、その指示にしたがって情報収拾活動をしていた等の事実があり、法一三条一項五号にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」に該当するものとしてした本件旅券返納命令に違法があるかどうかという点(争点4)並びに本件旅券返納命令が違法となる場合において、これによって原告が損害を受けたかどうかという点(争点5)が争点となっている。

三本件の前提となる事実関係は、次のとおりである(いずれも当事者間に争いがない。)。

1(原告に対する旅券の交付)

被告外務大臣は原告に対し昭和六一年一二月一六日数次往復用一般旅券(旅券番号MH三二八一〇四七、以下「本件旅券」という。)を発給した。

2(原告の逮捕・勾留)

原告は、昭和六〇年六月一日頃から、横須賀市〈番地略〉所在の上町郵便局アパート等に居住し、その後同市内の飲食店等で働き、昭和六二年一二月二日から同市内で飲食店「カフェバースクエアー女の子と男の子の夢見波」を一人で営業していたものである。

原告は、昭和六三年五月二五日神奈川県警察に有印私文書偽造・同行使の罪の嫌疑により逮捕された。原告は、同月二七日有印私文書偽造・同行使及び公正証書原本不実記載・同行使罪の被疑事実により勾留されて、同年六月一五日横浜簡易裁判所に公正証書原本不実記載・同行使の罪名で略式起訴され、右同日同裁判所において右の罪により罰金五万円の刑に処せられた。右の有印私文書偽造・同行使の被疑事実については、同年七月二一日不起訴処分となった(以下「別件刑事事件」という。)。

被告外務大臣は、本件旅券返納命令に当たり、その認定証拠として別件刑事事件に係る捜査によって収集された証拠を使用している。

3(本件旅券返納命令)

被告外務大臣は、昭和六三年七月二九日付けの「一般旅券返納命令書について」と題する書面(領旅第一〇四二号)をもって、原告に対し、「貴殿が昭和五七年以来北朝鮮工作員と認められる人物と海外において接触し、その指示により情報収拾活動を行っていた等の事実にかんがみ、貴殿は法一三条一項五号にいう著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当な理由がある者であることが、本一般旅券の発行の後に判明した。」として、法一九条一項第二号の規定に基づき本件旅券を返納すること命じる旨、本件旅券が昭和六三年八月一日までに返納されなかったときは、その旅券は効力を失うとともに、原告は法二三条一項四号の規定により罰せられることがある旨、この処分に不服のある場合は行政不服審査法の定めるところに従い、この処分があった翌日の起算通知日から起算して六〇日以内に外務大臣に審査請求することができる旨通知し、本件旅券返納命令をした。

本件旅券の返納は、本件旅券が当時横浜地方検察庁に押収中であったため、昭和六三年八月一日同検察庁から外務大臣に引き継ぐという形式でされた。

被告外務大臣は、平成二年三月一日付けの「一般旅券返納命令訂正通知書」と題する書面(領旅第二二五号)をもって、原告に対し、「貴殿に交付した昭和六三年七月二九日付一般旅券返納命令書において、命令本文の『旅券法一九条一項第二号の規定に基づき(中略)返納することを命じます。』との記載は、『旅券法一九条一項第一号の規定に基づき(中略)返納することを命じます。』の誤記であるので訂正します。」と通知した(以下「本件訂正通知」という。)。

四争点に対する当事者の主張

1  争点1(本件旅券返納命令取消しの訴えの利益の有無)について

(一) 原告の主張

(1) 一般旅券について、その有効期間を経過したときにはその効力を失う旨規定する旅券法一八条一項二号(平成元年法律第二三号による改正後の規定)は、従来一往復用旅券のように有効期間の定めのない旅券が存在していたものを、機械読み取り装置の導入に備えて改正したもので、このような技術的な規定によって旅券の本質的効力が決定されるべきではない。旅券の発給は、行政上の許可行為ではなく、旅券の名義人の国籍及び身分事項を公証する行為であると考えるべきであるから、一般旅券の有効期間は、条件の存続期限を意味するに過ぎなく、その経過によって当然に旅券が失効するものではないというべきである。

(2) また、本件旅券返納命令の理由からすれば、原告が再度の旅券の発給申請をしたとしても、拒否処分がされるであろうことは、ほぼ間違いのないことであって、後の処分で不利益に取り扱われる可能性が高い。その場合に再度後の発給拒否処分をも争わせるのは迂遠であり、原告に膨大な労力を要求するものであるといわなければならない。また、取消訴訟以外の救済方法による救済は不十分であり、違法な行政行為に対しては積極的な司法判断が要求されているから、後の処分を争うのでは救済が不十分である。

そうすると、例え本件旅券が失効したとしても、原告には、本件旅券返納命令の取消しによって回復すべき法律上の利益がある。

(二) 被告外務大臣の主張

(1) 法一九条一項に基づく旅券返納命令は、旅券の名義人に対し旅券の返還義務を発生させ、命ぜられた期限内に返納されなかったときは当該旅券を失効させることにより、右名義人の有効な旅券の正当な所持人たる地位を喪失させる行為であるから、対象とされた旅券が有効なものであることを当然の前提としており、当該旅券がその有効期間の満了等により失効すれば、当該旅券に係る旅券返納命令の効力も当然に消滅する。

そうすると、本件旅券の有効期間が既に満了している以上、本件旅券返納命令の法的効果も消滅するに至っている。

(2) 旅券は、その有効期間の経過によって当然に失効し、更新が予定されていない。原告から新たに旅券の発給申請があれば、本件旅券返納命令とはかかわりなく、当該申請の時点で改めて原告が法所定の発給制限事由に該当しないか否かを審査し、その旅券発給の拒否が決せられるものである。また、原告が将来において、本件旅券返納命令の取消判決を得ておかなければ、その処分の存在を理由として不利益な取り扱いを受けるべきことを定めた規定は、旅券法、同法施行令及び同法施行規則はもとより、その他の法令上に全く存在しない。

そうすると、原告は、本件旅券返納命令の取消しによって回復すべき法律上の利益を欠くこととなっている。

2  争点2(法一三条一項五号及び一九条一項の憲法適合性)について

(一) 原告の主張

(1) 海外渡航の自由は、憲法二二条二項において保障された憲法上の基本的人権であり、今日の国際社会においては、単なる経済的自由権であるのみならず、精神的自由権の性格を合わせ持つものであって、国政上最大限の尊重を必要とするものである。

国民が外務大臣から旅券の発給を受け、それを所持する権利は、現在、外国に渡航しようとする者は必ず旅券を所持していなければならないのであるから、憲法における国民の海外渡航の自由の保障そのものとして保障されなければならない。

法一三条一項五号は、旅券の返納を命ずることができる要件として、「外務大臣において、著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」という極めて漠然とした不明確な要件しか定めていない。

かかる抽象的かつ不明確な要件で憲法の保障する海外渡航の自由を制限することは、極めて強い萎縮効果をもたらして海外渡航の自由をないがしろにするものであり、かつ、行政府による恣意的な裁量権の行使を容認するものであって、憲法二二条二項に違反するものといわなければならない。

(2) 旅券返納命令は、憲法上保障された基本的人権の一つである海外渡航の自由を奪うものであるから、憲法三一条が適用ないし類推適用され、同規定に基づく厳格なデュープロセスの手続きが要請されるものであって、行政府による第一次的な事実認定及び評価に対し、当初から反論・弁明の機会を与えることで手続きの適正を担保するため、少なくとも告知聴聞の機会を与える手続きが必要である。しかるに、法一九条一項は、対象者に告知聴聞の機会を全く与えないまま、一方的に旅券返納命令に応ずる義務を課することを規定しているものであるから、かかる規定は、憲法三一条に違反するものであって、違憲無効である。

(二) 被告らの主張

(1) 法一三条一項五号は、同号に該当する者につき、憲法二二条二項において保障する外国旅行の自由という基本的人権に対し公共の福祉のために合理的な制限を加えることができるとしたものであり、憲法二二条等に違反するものではない(最高裁判所昭和三三年九月一〇大法廷判決・最高裁判所民事判例集〔以下「民集」という。〕一二巻一三号一九六九頁、昭和三七年九月一八日第三小法廷判決・同刑事判例集一六巻九号一三八六頁、昭和四四年七月一一日第二小法廷判決・民集二三巻八号一四七〇頁、昭和六〇年一月二二日第三小法廷判決・民集三九巻一号一頁)。

(2) 憲法三一条による保障が行政手続に及ぶと解すべき場合であっても、当該行政処分に事前の告知聴聞が必要か否かは、その処分により制限を受ける権利利益の内容、制限の程度、その処分が達成しようとする公益の内容、緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって、常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではない(最高裁判所平成四年七月一日大法廷判決・民集四六巻五号一頁)。

これを法一三条一項五号に該当することを理由とする旅券返納命令についてみると、これにより実質的に侵害される利益は憲法上保障される海外渡航の自由という重要なものであるが、同命令によって達成しようとする公益は、日本国の利益及び公安という、正に国家的ないし国際的見地からその確保が極めて強く要請されるものであって、緊急性を有するものである。かかる点を総合較量すれば、同命令をするに当たり、その相手方に対し事前に告知、弁解、防御の機会を与える旨の規定がなくても、法一九条一項の規定が憲法三一条の法意に反するものということはできないというべきである。

3  争点3(本件旅券返納命令の手続上の違法性)について

(一) 被告らの主張

(1)(本件旅券返納命令における根拠法条の記載の誤りについて)

法一九条三項は一般旅券の返納命令の通知書に、その根拠法条を明記することを要求していないから、根拠法条の記載は本件旅券返納命令の効力要件ではないというべきである。したがって、その点の記載に誤りがあっても、そのこと自体によっては本件旅券返納命令が違法となるものではない。

また、本件旅券返納命令の通知書には、原告が本件旅券の発給を受ける以前の昭和五七年から引き続き北朝鮮工作員の指示の下に情報収拾活動を行っていた等の事実が、本件旅券の発給後に明らかになり、これが法一三条一項五号に該当するものであることが明確に記載されている。右に記載された理由が法一九条一項一号に該当するものであることは、その記載内容から一見して明白であり、適条を同項二号とした記載が単なる誤記に過ぎないことも明瞭である。そうすると、右通知書に記載された理由は、原告が本件旅券返納命令に不服を申立てるにつき何ら支障を及ぼすものではなく、そうであるとすれば、右の適条記載の誤記によって本件旅券返納命令が違法となる余地はないというべきである。

(2)(本件旅券返納命令の基礎資料収集手続の違法性について)

別件刑事事件に係る捜査は、原告に係る有印私文書偽造・同行使及び公正証書原本不実記載・同行使の罪の被疑事実そのものを対象にしたものであり、その事案の真相を解明するためには、被疑事実の罪体部分のみならず、その犯行の動機、原因、犯行に至る経緯、背後関係及び共犯関係についても捜査を遂げる必要があったため、勾留期間を延長するなどして捜査を継続したものであって、別件捜査という非難は当たらない。

(二) 原告の主張

(1)(本件旅券返納命令における根拠法条の記載の誤りについて)

本件旅券返納命令の通知書面には、その根拠法条として法一九条一項第二号の規定が記載されている一方、その理由としては、原告が法一三条一項五号に該当する者であることが、本件一般旅券の発行の後に判明した旨が記載されており、両者の内容が明らかに食い違っているので、本件旅券返納命令には、それ自体に取り消すべき瑕疵がある。

根拠法条の記載は処分の理由付記と一体となるものというべきであり、右通知書面における根拠法条の記載の誤りを軽微な誤記として取り扱うことはできず、本件訂正通知によって瑕疵が治癒されるものではない。

(2)(本件旅券返納命令の通知書面における教示の誤りについて)

本件旅券返納命令の通知書面には、この処分に不服のある場合は、この処分があった翌日の起算通知日から起算して六〇日以内に外務大臣に審査請求することができる旨記載されているが、右文言の意味は、これを直ちに読み取ることができないものであるから、右記載では教示手続になっていない。したがって、本件旅券返納命令は教示の手続に瑕疵があるから取り消されるべきである。

(3)(告知聴聞の手続欠如の違法性について)

仮に、法一九条一項の規定が憲法に違反するものでないとしても、憲法三一条の法意及び処分の相手方が受ける重大な不利益を考慮すれば、旅券返納命令に当たって、法の規定する要件に該当する事実の認定については、少なくとも告知聴聞の機会を処分の相手方に与える手続きが必要不可欠であるというべきである。しかるに、原告は、被告外務大臣から、本件旅券返納命令について呼出しを受けたり、その要件に該当する事実につき事情聴取を受けたことが全くないし、その他、事前に告知を受け弁明ないし防御の機会を与えられたことがないから、本件旅券返納命令は、その手続上瑕疵があり、違法である。

(4)(本件旅券返納命令の基礎資料収集手続の違法性について)

本件旅券返納命令にあたり被告外務大臣が使用した資料は、いずれも原告に対する別件刑事事件の逮捕及び勾留を利用して収集されたものである。右の逮捕・勾留の真の目的は、原告が北朝鮮工作員と見られる人物と接触し、その指示を受けて情報収集活動を行なっていたとの予断のもとに、その事実につき原告を取調べることにあった。しかし、仮に、原告が北朝鮮工作員と見られる人物と接触し、その指示を受けて情報収集活動を行なっていた事実があったとしても、そのような事実は、我が国においては何らの犯罪行為を構成しないものである。このような本来犯罪行為を構成しない事実について取調べを行なう目的で原告を逮捕・勾留したことは、憲法三三条及び三一条に反する違法な行為である。

しかるに、被告外務大臣は、右の違法な逮捕・勾留による取調べによって収集した証拠のみに基づいて、原告が著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞れがあると認めるに足りる相当な理由がある者に該当すると認定したものであるから、本件旅券返納命令は、その手続きに瑕疵が存し、違法である。

4  争点4(本件旅券返納命令の実体上の違法性)について

(一) 被告らの主張

(1) (被告外務大臣の裁量権について)

法一三条一項五号に該当するか否かの外務大臣の判断は、旅券の発給対象者の地位、経歴、人柄、旅行の目的、我が国の経済及び外交方針、渡航先の性格及び国情、各国の治安対策及び外交方針、国際世論の動向等の国際情勢、その他の諸般の事情を慎重に総合考慮してされるべきものであり、ことに、旅券返納命令の処分時における国際情勢の認識、外交方針の決定といったものは、それ自体極めて高度の政治性、専門性を有するものであるから、その評価、判断は、国際情勢等に関し秘密事項を含めた専門的知識と能力とを有している外交の所管行政庁としての、外務大臣の広範な裁量に委ねられているものである。

(2)(本件旅券返納命令を基礎づける事実について)

ア 原告と北朝鮮工作員との接触状況等について

a 劉と知り合った状況

原告は、昭和五二年二月二四日日本を出国し、フランスに滞在してヨーロッパ諸国を旅行していた際、昭和五六年八月頃コペンハーゲン市内で声をかけられたことから、「劉」と名乗る男性と知り合った。劉は、流暢な日本語を話し、原告に対し、中国物産品の輸出をしているなどと自己紹介した。原告は「佐藤恵子」と名乗り、フランスにおける住所及び電話番号等を劉に教えた。

b 劉による日用品の購入及び写真撮影の依頼とその実行状況

原告は、同年八月頃劉から連絡を受けてコペンハーゲンに行き、同人と会った際、仕事の手伝いとして、電話の取り次ぎ、市場の商品の売行き調査等を依頼されて承諾し、取り合えずフランスやイギリスにおけるホテルのパンフレットの入手及びセーターなどの商品の購入を依頼され、その費用として一〇万円相当の支払いを受けた。原告は、同年一〇月頃劉から連絡を受けてコペンハーゲンに行き、前回依頼された商品等を渡して、謝礼一〇万円相当を受領した。その際、シンガポールに行って、地図に丸印を付した場所一〇箇所について、その場所がどのような場所であるか特徴が判るように写真を撮影してくることを依頼され、その費用として五〇万円相当を、他にミノルタ製カメラ一台及び地図を各受領した。原告は、劉の指示どおりシンガポールに行って多数の写真を撮影して、コペンハーゲンで劉に右の写真等を渡し、謝礼として五〇万円相当を受領した。

c 劉との東欧諸国への旅行

原告は、劉に誘われて、コペンハーゲンから東ベルリン経由でモスクワに旅行し、更に、同年一〇月から昭和五八年夏頃までの間に、二回コペンハーゲンからベオグラードへ旅行した。同年六月二六日にコペンハーゲンからベオグラードへ向けて出国した際、両名は、「KIM夫妻」名義を使用しており、原告は朝鮮民主主義人民共和国政府の外交官旅券を所持していた。

d 劉による日用品、書籍類の購入、写真撮影、名簿作成などの指示と日本国内でのその実行状況

(a) 日本国内での日用品、書籍類の購入及び写真撮影

原告は、昭和五九年七月コペンハーゲンで劉に会い、帰国する旨伝えたところ、劉は、日本においても劉の仕事を手伝うように依頼し、次のような依頼事項を指示した。

① ポラロイドカメラ、ワイシャツ、下着、時計、セーターなどの生活用品を多品目購入すること

② 防衛白書、警察白書、地図(東京、大阪、新潟、富山、京都及び兵庫)などの図書を購入すること

③ 日比谷公園、井之頭公園、代々木公園、上野公園及び新宿御苑の写真を撮影すること

④ 銀座第一ホテル、新橋第一ホテルなど、できるだけ多数のホテルのパンフレット及びガイドブックを入手すること

劉は、右依頼事項を指示した際、原告に対し次のような注意を与えた。

① 写真を撮影するときは、怪しまれないよう自然に装うこと

② 誰かに監視されていないか常に注意すること

③ 図書を購入するときは何回かに分けて買うこと

④ 仕事に関するメモは、用済み後必ず細かく砕いて破り捨てるか又は焼却すること

⑤ 劉から依頼された仕事については、他人に言わないこと

⑥ 依頼された仕事の内容を不思議に思っても、深く考えないでおくこと

劉は、右依頼に対する謝礼として、原告に対し一〇〇ドル紙幣一〇〇枚合計一万ドルを渡したが、その際これを日本で両替するときには、偽名を使用するよう注意した。原告は、帰国後これを偽名で日本円に換金した。

原告は、帰国後の昭和五九年一〇月初旬及び一一月末に、劉から電話で依頼事項の履行を督促された。原告は同年一二月下旬頃フランスに行き、コペンハーゲンで劉に会い、指示されていた日本において購入したもの及び撮影した写真等を渡した。

その際、劉は、新たに陶器、ライター、万年筆等の装飾品の購入と、新宿、渋谷及び銀座の写真を撮影することを指示した。そこで、原告は、その指示どおり写真撮影等をして、昭和六〇年四月上旬フランスに行き、コペンハーゲンで劉に会い、指示されていた物を渡した。その際原告は、劉と、横須賀に居住することを話し合った。

(b) 名簿の作成

原告は、同年一二月中旬劉からの連絡を受けてコペンハーゲンで会った際、日本での知人殊に生活困窮者、海外渡航希望者について、なるべく多数の出身地、性格、趣味などを調査し、その名簿を作成することを依頼され、昭和六一年一月下旬頃、謝礼として一万ドル相当の日本円を受領した。

原告は、昭和六一年一〇月上旬、劉から電話により、依頼した名簿を持参するよう要求された。そこで、原告は、調査が不十分ではあったが、自衛隊員一名及び米軍人一名を含む知人二〇名ほどの名簿を作成し、劉の連絡によりコペンハーゲンで同人と会い、右名簿を記載した赤色手帳を渡した。原告は、その二、三日後、劉から、赤色手帳を返還され、今後住所は番地まで記載すること、生年月日も漏れなく記載し、家族及び趣味もより詳細に記載することなどを注意され、右調査を継続すること及び今後、劉とその日本国内にいる知人との電話連絡の取り次ぎをすることを指示され、これらの報酬として一万ドルを受領した。

原告は、同年三月一日に帰国後、新たに青色の手帳に知人の氏名、住所、生年月日、電話番号、出身地、性格及び特徴を克明に記載する作業を継続した。その対象者は、昭和六三年五月二五日原告が逮捕されるまでの間に一四二名に及び、そのうちには現職の海上自衛官四五名が含まれていた。

イ 原告とよど号乗取り事件関係者との関連について

a キャッシュカードの暗証番号

原告は、同年四月頃コペンハーゲンで劉と会った際、日本で多くの銀行口座を開設するよう指示された。原告が所持する青色の手帳には、開設した銀行口座等のキャッシュカードの暗証番号が七個記載されているが、そのうち五個は、別紙記載三のよど号乗取り事件の関係者であるT、Sの本籍地の番地、誕生日と数字的に符合している。

b 民間の音声伝言システム加入者の暗証番号のメモ

原告は、東京都千代田区有楽町にあるセイブマリオン内に設置された「セイブマリオン音声伝達システム」との名称の電話による伝言伝達システムの暗証番号のメモを所持しており、その暗証番号は、Tの本籍地の番号と原告の自称本籍地(佐藤恵子名義のもの)の番地の数字と一致している。原告は、昭和六二年九月頃劉から、電話で右伝言システムによる伝言方法を教えられ、その際右暗証番号も告げられてメモしたと述べている。

c 高校生二名に関するメモ

原告の手帳には、○○高校二年の男子学生及び女子学生の氏名、住所及び電話番号等が記載されていたが、これはSの自宅から押収されたメモに記載されていた内容と符合している。原告は、氏名不詳者から劉への伝言を頼まれ、メモしたものであり、劉から電話がきた際にそのまま伝えたと述べている。

(3)(北朝鮮工作員キム・ユ・チョルについて)

ア 劉は、一九八一年(昭和五六年)から朝鮮民主主義人民共和国政府の在ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ザグレブ総領事館に副領事として勤務していたキム・ユ・チョルという人物(以下「キム」という。)と、同一人物である。キムの顔写真は某国治安機関から提供されたものであり、劉とキムが同一人物であることは、某国治安機関からの情報提供によって確認されている。原告も、右のキムの顔写真について、劉と同一人物であることを認める供述をしている。

イ キムは、一九三八年(昭和一三年)四月一七日平壤で生れ、一九七八年(昭和五三年)一一月から朝鮮民主主義人民共和国政府の在デンマーク王国大使館に勤務し、一九八一年(昭和五六年)からは朝鮮民主主義人民共和国政府の在ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ザグレブ総領事館に副領事として勤務していたものである。

キムは、同時に朝鮮労働党連絡部の欧州地区担当幹部であって、日本及び大韓民国(以下「韓国」という。)に関する情報収集活動を行なうとともに、韓国に合法的に入国できる日本人及び韓国人であって対韓国工作員としてふさわしい者を探索すること、これを工作員として養成し、その工作活動を指揮することを重要な任務とする者であった。

キムは、海外において原告以外の複数の在外日本人女性と接触しており、これらの女性は、キムとの接触の後に朝鮮民主主義人民共和国やドイツ民主主義人民共和国等に渡航し、所在不明になっている。

ウ 朝鮮労働党中央委員会連絡部は、朝鮮革命を達成するためチュチェ思想に基づいて組織されている政党の一部門であり、武力革命あるいは武力闘争を容認し、海外における情報活動及び秘密工作活動、対韓国派遣特殊工作員の養成訓練並びに韓国内における非合法地下工作活動を行なうことを重要な任務とする機関である。

(4)(認定証拠について)

警察庁警備局外事課長作成の「日本国の利益又は公安を害する行為を行なう虞れのある日本人グループ六人について(通知)」と題する文書(以下「警察庁通知書」という。)は、行政機関相互間の協力として外務大臣官房領事移住部旅券課長に通知されたものである。その記載内容は、警察庁が自ら収集した証拠のほか、某国治安機関から提供された情報に基づくものである。この種の情報の交換は、治安機関相互の信頼関係に基づき、情報源を秘匿するという原則の下に行なわれるものであり、その情報提供国の名が明らかにされていないが、そのゆえをもって提供された情報の信用性が乏しいというものではない。本件の原告及び劉ことキムに係る情報を提供した某国治安機関は、朝鮮民主主義人民共和国政府及び大韓民国政府のいずれとも国交のある中立的な国の治安機関であり、某国治安機関からは従前からも信頼のできる情報の提供を得ていたこと、某国治安機関からの情報のうち不正確なものについては、その旨の留保が付されてくるものであるが、本件の原告及び劉ことキムに係る情報については何ら留保が付されていなかったことからして、某国治安機関に対する信頼性には疑問の余地がない。また、某国治安機関から原告の写真であるとして提供された写真二葉(以下「某国治安機関の疑原告写真」という。)の被写体が原告の顔写真と比較して同一人と推定して差し支えないと判断されるものであることは、某国治安機関から提供された原告及びキムに係る情報が、同機関による実際の調査に基づいて得られたものであり、信用性の高いものであることを実証するものである。更に、原告と劉ことキムとの海外における接触状況について、原告に係る前記の刑事事件に係る捜査において収集された証拠によって認められる外形的事実は、劉又はキムの呼称の点を除いて、警察庁通知書の記載内容とほぼ符合するものであり、この点からも某国治安機関から提供された原告及び劉ことキムに係る情報の内容が信用性の極めて高いものであったというべきである。

(5)(原告の法一三条一項五号該当性について)

ア 原告は、劉とともに東欧諸国に旅行した際には、「キム夫妻」名義で朝鮮民主主義人民共和国政府の外交官旅券を使用していること、劉との接触の際には、常にフランスに滞在する原告のもとに劉から一方的な連絡があり、その都度コペンハーゲンまで原告が出向くという不自然な方法をとっていること、原告は劉と肉体関係があったにもかかわらず、劉の身上等につき曖昧かつ抽象的な供述しかしていないことにかんがみると、原告は劉の身上等について知悉していたものというべきである。

イ 北朝鮮工作員によるものと推定される最近の主な国内における工作活動及び海外における破壊活動としては、別紙記載一及び二の各事件がある。

本件旅券返納命令の当時においては、大韓航空機爆破事件が発生した直後であり、ソウルオリンピックの開催を前にし、テロ及びスパイ活動を敢行する北朝鮮工作員あるいはテロ活動一般に対する国際的な非難が高まっていて、日本赤軍、北朝鮮工作員及びその庇護の下にある破壊活動グループである「よど号事件関係者」の動向が注視され、国際的に緊張感が極度に高まっていた。

このような情勢の下にあって、被告外務大臣において、原告が北朝鮮工作員らとともに起こしかねない行動により直接又は間接に我が国の利益又は公安に及ぼされる影響、あるいは原告の海外渡航を許すこと自体によって我が国が受ける国際的評価等を考慮し、原告について法一三条一項五号に該当すると判断したことは極めて合理的であり、かかる判断が外務大臣の裁量権の範囲にあることは明らかである。

(二) 原告の主張

(1) 外務大臣の旅券返納命令の適法性についても、外務大臣の旅券返納命令が法一三条一項五号の規定により与えられた権限をその法規の目的に従って適法に行使したかどうかという観点から判断されるべきであり、その「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行なう虞がある」との判断が間違っていることが明らかにされたときには、その違法性は肯定されてしかるべきである。

(2) 原告には、法一三条一項五号に該当する事実がない。

別件刑事事件における原告に対する取調べは、連日深夜に渡るものであり、その供述は、強制又は誘導によって強いられたものであるから任意性も信用性も認められないものである。某国治安機関の疑原告写真が自分の写真であることを認めた原告の逮捕・勾留中の供述は、取調官から自白を強要された末、昭和六三年六月八日ころに至り、不本意ながらそれを認める内容の供述調書を作成されてしまったものである。

某国治安機関の疑原告写真二葉の被写体の人物は、いずれも原告とは全く似ていない人物である。宮坂祥夫作成の鑑定書は、平成三年八月六日付の嘱託に基づいて作成されたものであり、本件旅券返納命令の当時は存在しなかった資料である。宮坂鑑定書は、「ほぼ正貌」とすることのできないものを「ほぼ正貌」の写真とし、左顎部の陥凹も写っていない写真と右の「ほぼ正貌」の写真とを比較しており、また被写体の人物が面長とはいえないものを面長であるとし、原告の顔写真とは顎の張りかたが全く異なっている者の写真をもって原告の顔面写真と同一人物の可能性が高いなどと、誤った判断をしている。宮坂鑑定書は、鑑定の方法論自体にも、形態解剖学的検査なるもの及び人類学的計測検査にしても特定個人の異同識別という肝心のレベルには程遠いものであって無理があるし、眼、瞼、内眼角及び耳の形の種類について検査していないなど、鑑定としては不十分かつ非科学的なものである。

(3) 本件においては、原告の顔写真のほか某国治安機関から提供されたものであるとされる写真が提出されているが、このうちデンマーク語で三月を意味する記載を伴う「YAMATA Jera(marts 1982)」と付記された写真及び「YORIKO Mori(marts 1982)」と付記された写真があるが、英語で二月を意味する記載を伴う「M.YAO.(FEB 1982)」と付記された写真もあり、これらについて同一の某国治安機関から提供されたものであるという証人瀧澤裕昭の説明は疑わしい。また右の「M.YAO.(FEB 1982)」と付記された写真と宮坂鑑定書添付の写真は同じ写真であるにもかかわらず、後者には右の「M.YAO.(FEB 1982)」という付記がなく、不統一であり、前者の写真の付記「M.YAO.(FEB 1982)」が果たして某国治安機関から提供されたものであるかどうかも疑わしく、このような不明事項の多い写真に証拠価値を認めることはできない。そもそも何者がどこで撮影したものであるかも明らかにされず、このような空港らしきところに女性一人が写っているだけで、全く別人の写真に曖昧な氏名と年月を記載したシールを貼りつけただけの写真によって汚名を着せられるというような非人道的なことが許されてはならない。

被告外務大臣は、本件旅券返納命令にあたり、いずれも原告に対する違法な逮捕及び勾留を利用して収集された資料を使用している。右の違法な逮捕・勾留による取調べによって収集した証拠に基づいて、原告が法一三条一項五号に該当する者であると認定することは許されない。

(4) キム・ユ・チョルなる人物は存在しない。キムについては某国治安機関などから入手された情報があるというが、某国治安機関に係る国名も明らかにされておらず、このような公開されない情報が本当に存在するのかどうかの検証もできないし、原告にとっては十分な防御ができない。そして、キムについて裏付又は補強となる情報はないし、キムの「地面の下の活動」についての立証はなく、その詳しい人定も不可能であるというのであるが、それは被告らにおいて本件旅券返納命令を維持すること以上に、某国治安機関から入手した情報の情報源を秘匿することによる利益を優先させることを選択した結果に過ぎない。

本件旅券返納命令については、原告にとって訴訟の場における反論及び反証の機会が与えられていないのであるから、直ちに取り消されるべきである。

(5) 原告には、法一三条一項五号に該当する事実がない。本件旅券返納命令は違法である。

5  争点5(本件旅券返納命令による原告の損害)について

(原告の主張)

原告は、本件旅券返納命令によって海外渡航の権利を侵害され、甚大な精神的苦痛を受けた。その精神的苦痛は金三〇〇万円をもって慰謝されるのが相当であるから、被告国は、原告に対し右の慰謝料三〇〇万円及びこれに対する本件旅券返納の日である昭和六三年八月一日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金並びに弁護士費用二〇〇万円の損害を賠償すべきである。

第三争点についての判断

一争点1(本件旅券返納命令の取消しの訴えの利益の有無)について

1 法一八条一項三号によれば、数次往復用の一般旅券は、その有効期間が経過すれば、その効力を失うと規定されているから、本件旅券も、その有効期間を経過している以上、効力を失ったものというべきである。原告の主張は、法の明文に反する独自の見解であって、採用することができない。

2 法及びその関係規定は、旅券の返納命令がされたことを、後の旅券の発給申請の手続等において不利益な事由として扱うべき旨を定めてはいない。したがって、旅券返納命令の取消を求める訴えの利益は、その取消によって旅券を回復できるということによってのみ基礎づけられることとなるから、その期間経過による失効によって、その取消があっても、旅券が回復できないこととなれば、その訴えの利益は失われることとなる。本件旅券が失効した以上、原告は、新たに旅券の発給を申請すれば足り、その返納命令の取消を求める利益を失ったものというべきである。

3  原告は、本件返納命令の存在をもって、後の旅券発給申請において不利益に取り扱われる可能性が高いというが、右のとおり、法律上その命令の存在を不利益に取り扱うこととなってはいないから、仮に原告主張のようなことがあったとしても、それは、事実上のものに過ぎず、本件返納命令が取り消されるかどうかとは係わりのないことである。

4  原告は、取消訴訟以外の救済方法による救済は不十分であると主張するが、例えそうであるからといって、本件訴えに法律上の利益が肯定されることとなるものではなく、その主張はそれ自体理由がない。

二争点2(法一三条一項五号及び一九条一項の憲法適合性)について

1(法一三条一項五号の憲法適合性について)

原告は、法一三条一項五号が、漠然とし、かつ不明確な要件をもって憲法上保障された海外渡航の自由を制限することは、萎縮効果をもたらし、行政府による恣意的な裁量権の行使を容認するもので、違憲であると主張する。

しかし、国民の海外渡航の自由は、憲法二二条二項によって保障されているものではあるが、公共の福祉に基づく合理的な制約に服するものというべきであり、法一三条一項五号は、海外渡航の自由に対し、公共の福祉の観点から合理的な制約を課したものであって、その規定する要件が、漠然とし、かつ不明確であって、不合理な萎縮効果をもたらすとか、行政府による恣意的な裁量権の行使を容認するものであるとまではいうことができないから、右主張を採用することはできない。

2(法一九条一項の憲法適合性について)

原告は、法一九条一項が、反論、弁明ないし告知・聴聞の機会を与えずに、憲法上保障された海外渡航の自由を奪うものであって、違憲であると主張する。

確かに国民の権利や自由を制約する行政庁の処分について、およそ憲法三一条に定める適正手続の保障の枠外にあるとするのは相当ではないが、そのような行政庁の処分について、事前にその相手方に反論、弁明又は告知・聴聞の機会を与える立法政策をとるか否かは、その処分により制約を受ける権利や自由の内容、制限の程度、その処分により達成しようとする公益の内容、程度、緊急性等を総合的に考慮した立法府の裁量により決定されるべきものであり、常にそのような立法政策をとらなければならないものではないと解される。法一三条一項五号に該当することを理由とする法一九条一項の処分は、これによって制約されるものが国民の海外渡航の自由という憲法上保障された自由権ではあるが、これによって達成しようとする公益は、我が国の利益又は公安に対する著しいかつ直接の危害の防止であって、国の存立にも係わるような事項であり、かつ、旅券の返納を命ずるという事柄の性質上、緊急の必要性があって、事前の告知・聴聞等を経ていては、目的を達し得ないことがありうるものであるから、これらの点を総合すると、法一九条一項が、処分の相手方に対し、反論、弁明ないし告知・聴聞の機会を与えていないからといって、同条項が憲法三一条に違反するということはできない。

三争点3(本件旅券返納命令の手続における違法性)について

1(本件旅券返納命令における根拠法条の記載の誤りについて)

本件旅券返納命令の通知書においては、原告が、「昭和五七年以来」北朝鮮工作員と認められる人物と接触し、情報収拾活動を行っていた事実を指摘したうえ、原告が法一三条一項五号に該当する者であることが、「本一般旅券発行の後に判明した。」と記載されているのであるから、この記載において本件旅券返納命令の理由としたところが、「一般旅券の名義人が、当該一般旅券の交付の後に、第一三条一項各号の一に該当するに至った場合」ではなく、右に該当する者であることが、当該一般旅券の交付の後に判明した場合であることを読み取ることができる。一方、右通知書において記載された根拠法条は、一九条一項二号となっているから、このような通知書を受領した者は、その理由とするところが、同条一号であるというのか、二号であるというのかを直ちに把握することができないで、迷うこととなろう。その意味で、この通知書の理由には不備があるといわざるを得ない。

しかしながら、右通知書の記載を良く検討すれば、記載した事実と、根拠法条とのいずれかに誤りがあるとの結論が得られ、その観点からすれば、指摘された事実中、昭和五七年以来との記載や、後に判明したとの記載が書き誤りである可能性はほとんど考えられない一方において、適条の記載は、一号と二号との異同であるから、書き誤ることもあり得るとの推論が可能であるので、右通知書は、法一九条一項一号を根拠とするものであるとの結論を容易に導くことができると認められる、そうすると、右の適条の誤りは、原告が、本件旅券返納命令に対し不服を申立てるについて実質的な障害となるものではないということができるから、これをもって、本件旅券返納命令の手続に違法があるとすることはできない。

2(本件旅券返納命令の通知書における教示の誤りについて)

〈書証番号略〉によれば、本件旅券返納命令の通知書には、処分に不服がある場合に審査請求をできる期間について、「起算通知日から起算して六〇日以内」と記載してあることが認められる。右記載によっては、起算日がいつであるかを明確に知ることができないから、右記載は、不服申立てができることの教示としては、不十分なものである。しかし、右の記載は、起算日が不明確であるというに過ぎず、不服申立てができること自体は誤りなく教示しているから、これをもって、本件返納命令の手続そのものを違法とするようなものとはいえない。右教示の誤りについてはその結果、起算日を誤り、そのため、不服申立て期間を徒過した者がいれば、その者を救済すれば足りる(原告は、右書面の交付を受けた日から六〇日以内である昭和六三年九月二八日に不服の申立てをしている。)。

3(告知・聴聞等の手続欠如の違法性について)

法には、本件返納命令を行うについて、相手方に反論・弁明ないし告知・聴聞の機会を与えるべき旨の規定はなく、法が右返納命令の手続につき、明文の規定がなくとも、当然告知・聴聞のされることを要求していると解すべき根拠はない。そうすると、本件旅券返納命令について、原告に反論・弁明ないし告知・聴聞の機会が与えられなかったからといって、右手続が違法となるものではない。

4(本件旅券返納命令の基礎資料収集手続の違法性について)

被告外務大臣は、原告が法一三条一項五号に該当すると認定するのについて、原告が私文書偽造等の罪の被疑事実で逮捕・勾留された際に作成された原告の供述調書等右事件の捜査資料を一つの資料として使用したことを自認するところであるが、原告は、右逮捕・勾留中の供述等の証拠に基づき、公正証書原本不実記載・同行使の罪で略式起訴され、罰金に処せられて、その裁判は確定しているのであり、原告が他の罪で起訴されたことはないから、原告の逮捕を他の罪について捜査するためのいわゆる別件逮捕であると断ずることはできず、右捜査によって得られた証拠が、違法に収集されたものということはできない。確かに、〈書証番号略〉の原告の司法警察員や検察官に対する供述調書の内容や量、〈書証番号略〉等の捜査資料の内容などをみると、これらの捜査は、有印私文書偽造・同行使の罪及び公正証書原本不実記載・同行使の罪の立証や、原告の情状の確定に資するためのものとしては、徹底しており、かつ、大掛かりに過ぎるとの印象を持つことは否み得ないところではあるが、これらの罪であっても、その私文書や公正証書の内容、犯行の動機、共犯者等の情状の如何によって、被疑者の刑事責任が大きく異なることとなるのは、公知に属する事柄であって、その情状を確定するため、このような捜査をすることも必要である場合があり得、これをもって、違法な捜査活動であるとまではいえない。本件は、右のとおり、右のような捜査に係わらず、事件は略式起訴で終了しているが、それは結果論に過ぎない。

四争点4(本件旅券返納命令の実体的理由の存否)について

1  被告らが主張するように、国民について、法一三条一項五号に該当する事由があるかどうかの判断及び右事由があるとしてその国民に対し、法一九条一項に基づき旅券の返納を命ずるかどうかの判断については、事柄の性質上、処分庁である外務大臣の広範な裁量が認められるものというべきであるから、その判断の結果として行われた旅券返納命令の適否を審査する裁判所としては、外務大臣が裁量権を行使するについて前提とした事実がその基礎を欠くものであるかどうか、その裁量権の行使に社会観念の上から著しい逸脱ないし濫用があるかどうかという観点からのみこれを審査することができるものと解される。

2  原告は、別件刑事事件において司法警察員又は検察官に対してした供述には任意性がないと主張するが、原告は、右供述をも証拠として提起された略式起訴に同意して罰金刑の言渡しを受けており、刑事手続において何ら供述の任意性を争っていないことは弁論の全趣旨から明らかであって、この事実は、右供述が任意にされたものであることを強く推認させる事実である。そして、〈書証番号略〉の原告の供述調書を通覧すると、原告は、逮捕された直後から、弁護人を選任していて、取調べについては、その助言を受けて対応したものと推認されるのであり、取調べにおいても当初から最後に至るまで、話したくない事項については話したくないと明確に供述を拒否しており、取調官に誘導されるままこれに迎合して供述したことを窺わせるような形跡はない。原告が、〈書証番号略〉において、強制的に自白させられたとして述べるところには、周囲に迷惑を掛けたくないと考えて嘘を言ったとか、同じことを何度も聞かれて腹が立っていたとかと述べる部分があり、これは、取調官の意を受けた態度というより、これに屈伏せず、優に対抗し得ていたことを前提としている記述であるとみることもできるし、同号証で、原告が検事の勝手な解釈を記載したとか、その誘導に乗って真実でないのに適当に思いつきを喋ったとする部分は非常に広範でかつ細かい部分に及び、取調官が創作できる範囲を越えているというべきであるうえに、原告が当時の状況を素直に語ったものをそのまま記載したと考えられ、原告も自由な状態でこれを読んで何ら異議を述べてはいない当時の代理人であった弁護士の手記(〈書証番号略〉)の記載内容にも反することとなっていて、到底採用することはできないのである。

〈書証番号略〉によれば、原告は、各取調べの際、言いたくないことは言わなくてもよいことを告知され、供述を録取した調書を読み聞かされて、内容を承認したうえ、これに署名指印をしていることが認められ、これらの点に前記の事情を併せれば、右各調書は、原告が任意に述べた供述を録取したものであると認められる。

3  被告は、原告と多数回にわたり交渉のある劉と称する人物が、キム・ユ・チョルという名の朝鮮民主主義人民共和国外交官及び朝鮮労働党連絡部欧州地区担当幹部である北朝鮮工作員と同一人物であると主張する。被告が、その根拠として提出する証拠のうち、最も直接的なものは、原告がキムと共にキム夫妻と称して、ベルリン経由でモスクワまで旅行したという某国治安機関の報告と、某国治安機関からキムであるとして提供を受けた写真を、原告が数名の写真の中から選びだしてこれが劉であると指示したというものであって、いずれも、某国の治安機関の提供したという情報に依存するものである(なお、被告は、原告が右キムと夫婦と称してモスクワまで旅行した際、朝鮮民主主義人民共和国外交官の旅券を使用したと主張するが、そのようなことがあったとする報告は見当たらない。)。被告は、某国治安機関の情報は、警察庁に提供されたものであり、その某国が、中立的な国で、従前から信頼できる情報の提供を得ており、本件情報については留保が付せられないで提供されたものであるから信頼性に疑問の余地がないと主張し、証人滝澤裕昭及び同渡辺咲子の証言は、これに副うが、被告は、某国がいずれの国であるかを遂に明らかにしない。右各証人の証言によれば、この種の情報の交換は、治安機関相互の信頼関係に基づき、情報源を秘匿するという原則の下に行われるため、その情報を提供した某国が、どの国であるかを訴訟上明らかにすることはできないが、その情報そのものは優に信用できるという。確かに、訴訟上その情報の出所が必ずしも明らかにされない場合であっても、認定の基礎とされることはあり得るが、それは、その情報の内容や、その得られた経緯等の事情から、出所が明らかでなくとも、これを信用し得ると考え得るような例外的な場合において初めて認められるものであり、その情報の出所を明らかにできないという欠点を充分に補うような信用性に関する事情の立証があったことを前提とするものである。本件においては、某国治安機関というだけでは、国名はともかく、それがどのような国であるのか、治安機関とはその国のいかなる組織なのか、原告なりキムなりは、その機関の何人によって、どのような機会にどのような手段によって目撃されたのか、その対象者が原告なりキムなりであるということは、どのようにして確定されたのかなど、右情報が信を措くに足りるものであるかどうかを確認するために知ることが必要である事項のいずれも把握することができない状態なのであり、被告が右情報を信用できる理由とするところ自体も、それが真実であるか否かを知ることのできないような一つの宣明であるに過ぎないのである。

もっとも、被告は、某国治安機関によって原告を撮影したとして提供された写真が、原告の顔写真との異同識別鑑定の結果同一人と推定して差し支えないとされたことを、同機関の情報が信頼できることを実証したものと主張する。確かに、警察庁技官宮坂祥夫作成の鑑定書(〈書証番号略〉)は、右の二つの写真が同一人と推定して差し支えないとの結論をとっており、証人宮坂祥夫は、そのような結論が相当である所以を述べている。右各証拠によっても、右鑑定書が、二つの写真の人物を同一人と推定して差し支えないとまで結論付けることには、データの不足と、某国治安機関から提供された写真が必ずしも鮮明でなく、真正面から撮影されたものではないことを考え併せると、直ちに賛し得ないものがあるが、二つの写真に現れた顔貌に強い類似性のあることは、これを認めることができる。そして、真実右写真の一つが、某国治安機関より、原告の写真であるとして提供を受けたものであれば、右機関は原告を写すのでなければ、このような類似性を示す写真を撮影することができなかったと考えられるのであり、このことと、原告が、別件刑事事件の取調べにおいて、この写真の人物を自分であると述べていること(〈書証番号略〉)を併せれば、右提供に係る写真は、原告であると認めるべきである。しかし、右写真についても、これが、某国治安機関のどのような者が、どのような機会に、どのような理由によって撮影したものであり、どのような手段によって、その人物が原告であると特定したか等の事項が一切明らかではなく、これらの事項が不明である以上、右写真の存在が、某国治安機関の情報が信頼性の高いことを実証するものであるとまで認めることはできないのである。

このような状況の下において、被告が、いかに、某国治安機関の情報が信頼性が高いといっても、それだけでは、それは被告の主張であるに止まるといわざるを得ない。これらの情報につき、その信用性に疑問を持つ者が、その真実であるかどうかについて確認する方途がおよそ断たれた状態において、被告が、首肯し得るような根拠を示さないで、単にこれを信用しろというようなことは、それが国の行政機関相互間においてであればともかく、国民の権利を制限することの可否に関する司法判断の部面においては、到底通用するものではないといわなければならない。以上のとおり、劉がキムであるとの事実は、これに副う〈書証番号略〉に現れるA国治安機関の情報であるとするものを直ちに採用し得ない以上、認めることができないのである。

4  以上の次第で、原告が接触した劉という人物については、これをキムであるとは認められないが、別件刑事事件における原告の前記各供述や、その際の捜索押収手続により証拠となった原告の手帳の記載などによれば、右人物について、次のような事実は認めることができる(認定した証拠を各項の末尾に掲げた。)。

(一) 原告の自宅から押収された黒色表紙の手帳には、○○高校二年生のH、Mについて、住所、電話番号、所属する運動クラブや文化クラブについての記載があり、これについて、原告は、氏名不詳の者から、電話があり、劉に伝えてくれと右内容を告げられたのでメモし、後日電話してきた劉にそのまま伝えたと述べている。一方、よど号乗っ取り事件の共犯者であるとされ、日本で旅券法違反容疑で逮捕された甲ことSの自宅から押収されたカード入れの中に、右高校生二名の住所、電話番号、所属する運動クラブや文化クラブを記載したカードが発見されており、その内容の一致度から、原告のメモの情報源は、Sであると認められる。すなわち、右Sは、自らか、又は人を介して、原告に、劉に伝えるよう右情報を流したものであり、劉と、Sとは、そのような情報を交換する関係にあったものと認められる(〈書証番号略〉)。

(二) 劉は、多数回にわたり、コペンハーゲン市内に滞在しており、流暢な日本語を話し、自らのことを中国物産品の輸出をしているなどと紹介している。劉は原告に対し、原告が欧州滞在中には、フランスやイギリスのホテルのパンフレットの入手及びセーターなどの商品の購入(費用として一〇万円支払)、シンガポールにおける特定地点一〇箇所の写真撮影(費用として五〇万円支払、謝礼として五〇万円支払、ミノルタ製カメラ一台及び地図を手交)を依頼し、原告が帰国してからは、ポラロイドカメラ、ワイシャツ、下着、時計、セーターなどの生活用品多品目、防衛白書、警察白書、地図(東京、大阪、新潟、富山、京都及び兵庫)などの図書の購入、日比谷公園等五箇所の公園の写真撮影、銀座第一ホテル等多数のホテルのパンフレット及びガイドブックの入手を依頼し(謝礼として一万ドル支払)、右依頼事項指示の際、怪しまれないように写真を撮影すること、監視に注意すること、図書は何回かに分けて購入すること、仕事に関するメモは、用済み後破棄するか焼却すること、仕事について他言しないこと、依頼された仕事の内容について深く考えないこと、ドルを日本で両替するときには、偽名を使用することを注意した。劉は、更に原告に対し、日本での陶器、ライター、万年筆等の装飾品の購入、新宿、渋谷及び銀座の写真の撮影、日本での生活困窮者、海外渡航希望者等多数の出身地、性格、趣味などの調査及びその名簿作成を依頼し(謝礼として一万ドル支払)、日本での多数の銀行口座開設を指示し、セイブマリオン音声伝達システムとの名称の電話による伝言伝達システムの存在を原告に告げ、それに使用する暗証番号を告げた(〈書証番号略〉)。

(三) 被告は、右キャッシュカードの暗証番号や、音声伝達システムの暗証番号に、よど号乗っ取り事件の犯人であるとされるTや右Sの本籍地の番地などが使われていると主張するが、これに副う〈書証番号略〉は、捜査に当たった警察官の推測を述べるものに過ぎないから、右主張事実を認めるに足りるものとは言えず、他に右事実を認めるべき証拠はない。

5  本件において劉という人物について、証拠上認められるのは概要右(一)及び(二)の事実である。これらの事実によれば、確かに、劉は、通常のビジネスマンなどではなく、何らかの秘密性のある活動に従事しているのではないかとの疑問を抱かせる。しかし、日本に潜伏していたよど号乗っ取り犯人とされるSと劉が情報を交換していた事実があるからといって、直ちに劉を被告主張のキム・ユ・チョルなる者のような北朝鮮工作員であると断定することは困難である。原告に対する依頼や指示の内容も、それ自体は殊更に秘匿性の高い事項を目的とするものではなく、不相応に高額の報酬を支払って、これらの依頼や指示をしていたことをもってしても、劉を著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があるような北朝鮮工作員であると断定するにはなお飛躍があるといわなければならない。

6  一方、原告が、劉の依頼によって行ったことは、前認定のように、それ自体は、秘匿性の高いものとはいえない。なかでは、生活困窮者や海外渡航希望者等知人の身上をリストアップすることが、最も疑わしい事項であり、或いは我が国に北朝鮮の工作員を送り込むため、成り替わる対象を探す準備作業であると考えられなくはない。しかし、それも、一つの推測に止まるのであり、このようなリストアップが一に掛かってそのような目的に出たものであると認めるには、未だ足りないという他はない。前記各供述調書によれば、原告は、劉の指示に疑わしいところはあると思いつつも、北朝鮮による対日本情報工作の一端を担わせられているなどという意識はないまま、劉との親しい関係から、その依頼に応じていたもので、報酬も目当てであったというのであり、その依頼事項も、劉の指示どおりきちんと行っていた訳ではなく、その催促に対し、忙しいことを理由に、速やかな実行を断ったこともあるというのである。ここにおいては、一般に想起される情報工作としてのイメージが極めて稀薄になっているという他はない。

7  本件証拠によっていうことのできるのは以上のような事柄である。これらによっても、なお、劉の身上は怪しく、北朝鮮工作員ではないかと疑う余地は充分にあるし、原告の果たした役割についても、そのような劉の協力者であったのではないかとも見られないではない。

しかし、以上のような事実関係は、被告が本件旅券返納命令を行った際に基礎としたものとは重要な点において異なり、より、あいまいな要素が多くなっているといい得る。被告は、以上のような事実関係を前提としても、なお、本件返納命令を発したであろうか。前記のように、この命令は、被告の広い裁量に委ねられた処分であるから、当裁判所が現在のその点に関してする自らの判断をもって、被告の判断に置き代えることはできない。そうであるとすれば、裁判所は、本件返納命令において被告の判断の基礎とした事実関係に、事実の基礎を欠くものがあるとして、右命令を違法とする他はないものというべきである。

五争点5(本件返納命令によって原告の被った損害)について

右四のとおり、本件返納命令は違法であり、原告は、右違法な命令により、その命令発令後約三年間海外渡航の自由を奪われるに至ったものと認められる。原告本人尋問の結果によれば、原告はその間の平成三年八月スイスのジュネーブにおいて国際連合人権委員会が開催されるのに合わせ、同地で我が国の人権状況を訴えたいと欲したが、本件命令により、これを果たせなかった他には、具体的な海外渡航の必要を感じたことはなかったことが認められる。右事実に本件において認められる事実関係を総合すれば、本件の違法な公権力の行使によって原告の被った精神的被害は、これを金六〇万円の支払をもって慰謝するのを相当と認める(右金員に、これに対する本件旅券返納命令発令の日の後である昭和六三年八月一日から支払済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金のほか、弁護士費用として一〇万円を加算する。)。

第四結論

よって、原告の被告外務大臣に対する訴えは不適法として却下し、被告国に対する請求は、金七〇万円及びそのうち金六〇万円に対し遅延損害金を付する限度で理由があるから認容し、その余は理由がないので、これを棄却することとする。

(裁判長裁判官中込秀樹 裁判官榮春彦 裁判官長屋文裕)

(別紙)

一 北朝鮮工作員による海外における主な破壊活動等(被告らの主張)

1 韓国大統領官邸襲撃未遂事件

昭和四三年(一九六八年)一月二一日、武装した北朝鮮工作員三〇余名が韓国の軍人に変装して韓国に潜入し、韓国大統領官邸付近に接近したが、発見されて大半の者が銃撃戦の末に射殺され、一部の者が逮捕された。

2 韓国国立墓地顕忠門爆破事件

昭和四五年(一九七〇年)六月二二日、「六・二五朝鮮動乱二〇周年記念」のため同月二五日に予定されていた韓国大統領の参拝に先立ち、北朝鮮工作員数名が韓国国立墓地の顕忠門の屋根裏に電子式時限爆弾を仕掛けたが、事前に爆発したため犯人一名が死亡し、他の者は逃亡した。

3 韓国潜入未遂事件

昭和五五年(一九八〇年)三月二三日、武装した北朝鮮工作員三名が漢江及び臨津江の合流点から軍事境界線を越えて韓国に潜入したが、発見されて銃撃戦の末に射殺された。

4 カナダ事件

昭和五七年(一九八二年)二月二四日、カナダ人二名が外国を訪問する韓国大統領の暗殺を実行しようとしたが、事前に発覚して右両名が逮捕された。右両名は、カナダ在住韓国人崔重華から依頼を受け、六〇万ドルの支払いを受けていたものである。崔重華は北朝鮮に逃亡したといわれている。

5 ラングーン事件

昭和五八年(一九八三年)一〇月九日、北朝鮮工作員三名がビルマ連邦社会主義共和国ラングーン市内に潜入し、同国訪問中の韓国大統領が参拝を予定していた国立墓地アウンサン廟の天井に時限爆弾を仕掛けて爆発させ、既に到着していた韓国政府の閣僚ら二一名が死亡し、四七名が負傷した。

6 大韓航空機八五八便爆破事件

昭和六二年(一九八七年)一一月二九日、バクダット発アブダビ、バンコク経由ソウル行き大韓航空機八五八便が、朝鮮労働党中央委員会調査部所属の北朝鮮工作員二名(K及びG)が時限爆弾を仕掛けて爆発させたため、ベンガル湾付近で墜落し、乗客及び乗員合計一一五名全員が死亡した。

Kが所持していた日本人名義の偽造旅券は、西新井事件に関与した北朝鮮工作員が日本人から預かった旅券を元にして偽造したものであることが判明している。また、Gが北朝鮮工作員として日本人化のための教育訓練を受けた際に寝食をともにした女性は、昭和五三年ないし昭和五四年ころに日本国内から拉致されたものと推測され、東京に生活基盤を有していた昭和三二年生れの離婚歴のある日本人女性であることが判明している。

二 北朝鮮工作員による日本国内における工作活動等(被告らの主張)

1 宇出津事件

昭和五二年、北朝鮮工作員としての訓練を受けた在日朝鮮人が、在日米軍基地に係る情報収集活動と対韓国工作活動をしていた。

2 警備員拉致事件

昭和五二年、北朝鮮工作員が東京都三鷹市在住の五二歳の警備員を拉致し、北朝鮮に連れ去った(宇出津事件に関連して判明した。)。

3 福井県小浜市内の海岸から男女拉致事件

昭和五三年七月七日夕刻、福井県小浜市で、男性(二三歳)及び女性(二三歳)が行方不明になった。

4 新潟県柏崎市内の海岸からの男女拉致事件

昭和五三年七月三一日夕刻、新潟県柏崎市で、男性(二〇歳)及び女性(二二歳)が行方不明になった。

5 鹿児島県吹上町内の海岸からの男女拉致事件

昭和五三年八月一二日、鹿児島県吹上町で男性(二三歳)及び女性(二四歳)が行方不明になった。

6 富山県高岡市内の海岸における男女拉致未遂事件

昭和五三年八月一五日、富山県高岡市の海岸遊歩道を歩いていた男性(二七歳)及び女性(二〇歳)が、四名の男に縛り上げられ、布袋に押さえ込まれたが、自力で脱出した。

7 中華料理店コック拉致事件

昭和五五年、大阪で男性(四五歳独身、中華料理店コック)が拉致され、北朝鮮に連れ去られた。

8 西新井事件

我が国に密入国した北朝鮮工作員が、日本人二名の戸籍を盗用して日本人になりすまし、日本人名義の旅券を用いて出入国を繰り返すとともに、北朝鮮工作員として訓練させるために在日韓国人を北朝鮮に向け密出国させていた。

三 よど号乗取り事件

T、B、S、N及びWほかの合計九名は、昭和四五年三月三一日、羽田から福岡に向けて飛行中の日本航空三五一便「よど号」をハイジャックし、人質をたてにして福岡及び京城を経て平壤まで飛行させ、その後は北朝鮮で保護を受けている。

Sは、その後日本国内に不法入国し、昭和六三年五月六日逮捕された。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例